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Wo Long Fallen Dynasty(ウォーロン フォールンダイナスティ)の用語解説

 

ウォーロン(Wo Long)攻略

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■黄巾の乱から始まるダークファンタジーな三国志
ウォーロンの舞台は西暦184年、後漢末期の中国から始まる。三国志は西暦180年~280年頃から、 曹魏(そうぎ)、孫呉(そんご)、蜀漢(しょくかん)の3つの国が覇権を争って戦ったので、物語は序盤のところから描かれてます。

引用:https://dswiipspwikips3.jp/game-walkthroughs/wo-long-fallen-dynasty/

三国志


西暦180年~280年頃の中国における、 曹魏、孫呉、蜀漢の三国の覇権争いの歴史。または、その史実を記載した史書を指す。史書『三国志』には、 後漢の衰退から、群雄割拠の時代を勝ち抜いた曹魏、孫呉、蜀漢の興亡までが記述されている。編者は、三国時代を終わらせ中華を統一した西晋の史官、陳寿 (ちんじゅ)。

 

個人の事績をまとめた紀伝体で構成され、 『魏志』、『呉志』、『蜀志』 に分かれている。後世、『三国志』 をもとに民間伝承を取り入れ、さまざまな脚色が加えられた『三国志演義』 が登場し、中国の民衆のみならず世界中の人々に愛読された。


丹薬


摂取によって体内の氣を爆発的に増加させ、人知を超えた力を得られる秘薬。精製に人間の氣を要し、 製法も一部の道士にしか伝わっていない仙道の秘宝。庶民にとっては幻の存在であり、一部の権力者のみが入手できた。

 

軍勢の士気を向上させる、 戦傷を癒すなど、さまざまな効果があるが、用法を誤ると増大した妖氣に包まれて妖魔化してしまう。始皇帝を始めとして、 古代の王の中には丹葉の放つ妖氣に呑まれ悲劇的な最期を遂げた者もいたと伝わる。


仙氣


氣における陽エネルギーを指す。氣には仙氣と妖氣があり、 仙氣は生物に良い効果をもたらすとされる。へその下にある丹田から全身の気脈へと放出され、橙色の光と共にすさまじいエネルギーを生み出す。

 

修行を積んだ仙人や神獣の加護を受けた者にしか扱えないとされ、歴史に名を残す英雄たちは皆、仙氣をまとい、世の覇権を争ったという。丹菜はもともと仙氣を人工的に作るための薬だったが、その力に魅入られる者が後を絶たず、妖氣を生み出す原因となってしまった。

 


妖魔


妖氣の乱れから生じた魔物。赤黒い瞳と凶悪な外見が特徴。 妖氣に呑まれた獣や人間は、強大な力を得る代わりに凶暴化して妖魔となる。丹薬を意図的に摂取して妖魔となることも可能だが、同時に知恵や理性を喪失する。


強靭な精神力を持つ武将などは妖氣に呑まれても理性を保つことがあり、人と妖魔の両面を併せ持つ 「半妖 (はんよう)」となる。また、神獣の加護を持つ者が妖氣に呑まれると、神獣の力を取り込んだ特別な妖魔が誕生する。


陰陽五行


古代中国で創始された哲学思想。陰陽説と五行説、二つの思想を戦国時代の斉の陰陽家・鄒衍 (すうえん) がまとめた。万物を形成する五元素、 土・木・金・火・水は互いに生み出し合う陽の関係・相生 (そうじょう) と弱め合う陰の関係・相剋 (そうこく)を持つ。

 

また、鄒衍は陰陽五行説と並び、五徳終始説も唱えた。五徳終始説は五元素の循環と中国王朝の変遷を対応させた論であり、五徳とは五元素を指す。黄帝(こうてい) の土徳より始まり、新の王莽 (おうもう) が帝位につくまで、五行相剋の順序が用いられた。


神獣


仙氣に包まれた聖なる獣。固い絆で結ばれた者たちが結義を行うことにより生まれる 「玉」に宿り、 結義を経た者はその加護を受ける。妖氣を無力化し、妖魔となった人間を元の姿に戻す力があるとされる。

 

朱雀(すざく)、青龍 (せいりゅう)、玄武(げんぶ)、 白虎 (びゃっこ)、麒麟(きりん)などが存在し、それぞれ陰陽五行における五元素のいずれかに対応している。なお、神獣を呼ぶ結義は高い志と優れた能力を兼ね備えた人物のみ行うことができ、
その姿も選ばれた者しか見ることができない。


一敗塗地


一敗地 (いっぱいとち) とは、 完膚なきまでに敗れること。「一敗」は一戦での敗北を示し、 「塗地」 は兵の臓物が泥濘にまみれる様を表す。「初出は 「史記」 の 「高祖本紀 (こうそほんき)」。

 

始皇帝の死後、沛の県令に推薦された劉邦(りゅうほう)が「将に相応しくない者を据えれば、悲惨な負け方をする」と発言した故事に由来する。その後、劉邦は仲間の熱い説得に折れ県令に就任。楚の項羽 (こうう) を始め大陸全土の諸侯に打ち勝ち、前漢の初代皇帝・高祖となった。


報仇雪恨


報仇雪恨 (ほうきゅうせっこん)とは、仇を討ち、 雪辱を果たすこと。初出は 『淮南子 (えなんじ)」 の 「氾論訓 (はんろんくん)」。中国春秋時代、 呉に敗れた越王・勾踐 (こうせん) が、 家臣の范蠡 (はんれい) や文種(ぶんしょう)と共に、 越の再興を誓った故事に由来する。


『三国志演義』 では西暦193年、曹操による徐州攻めの際、「報仇雪恨」 の旗が掲げられた。曹操は徐州に退避していた父・曹嵩 (そうすう) の惨死を知り、刺史・陶謙 (とうけん) に恨みを抱く。ほどなくして、 曹操が仇討ちを遂げんと徐州へ侵攻。領民禽獣ことごとくを斬り捨て、 泗水の堰とした。

 

漢室衰微


後漢では、初代皇帝・光武帝(こうぶてい)から三代にわたり安定した世が続いたが、その後、皇帝が相次いで早世。幼い後継は常に操り人形とされ、権力は腐敗した官僚と皇帝の近侍にかわるがわる握られた。

 

後漢末に至ると官僚の一党が近侍の一掃を試みるが、その企みに気づいた近侍が官僚を一斉に捕縛。後世に言う党錮 (とうこ) の禁を起こす。近侍たちはますます権力の濫用を広げ、なかでも十常侍 (じゅうじょうじ) の張讓(ちょうじょう) が絶大な権力を握る。


彼は自らや親族におもねる者らの汚職を放任し、 人々には過酷な負担を強いた。苛政を恨む声は日々大きくなり、 漢室の権威は失墜していった。